備忘録

ここでいうわたくしは単なるわたしの擬人化ですので、あまりほんとうのことは書いておりません。

この世はすべて一つの舞台、赤いつなぎと舞台を降りるわたくし

2023年も、はや終わり、足早に去ってゆく霜月、師走。わたくしが何をしていたかと申しますと、あいも変わらず、ぽかんと口を開けて、間抜けな顔を晒しながら、えっちらおっちら生きてきた、そういうわけでございます。

兎にも角にも冬本番、街のあちこちには、クリスマスツリー、正月飾り、まんまるのケーキ、年賀、ケーキ、御節、鏡餅に、もういくつ寝ると、サンタが街にやって来て、エトセトラ、エトセトラ。メリーだのニューイヤーだの、やんややんやと、なんだかとにかく、おめでたいもの、そういうものがひしめき合って、盆と正月とサンタクロース、いっぺんに来たような、年末特有の、なんだかみんな浮き足立って、やけくそみたいに、ハッピークリスマス、ハッピーニューイヤー!そのわりに、師走は過ぎるのが早いねえ、なんて、どこか人ごとみたいに、ぽかんとしている、そんな感じ。

さてわたくし、これから迎える冬将軍、丁重にもてなすべく、タイヤ交換、そういうのをやって来たところなのですが、人類皆兄弟、皆々様も考えることは同じなようで、とりあえず近場のガソリンスタンドなるものに電話、タイヤ交換というのはできますか、とかなんとか、言い切らぬうちに、「はい!もう予約が一杯です!」そうハキハキ言われちゃ気持ちがいいや。

そんなこんなで、なんとか予約を取り付けて、これで一安心、同僚方にも、この日はタイヤを交換するので、早退してもいいですか!なんて、意気揚々、話してみたりしたのですが、同僚方は、ふうんまあいいんじゃない、そんなご様子。世間的には、タイヤ交換、そんなに大きなタスクではないんですね。

そうして迎えた予約当日、つなぎを着込んだ店員たちが、テキパキ、わちゃわちゃ、作業を進める、それを横目に、わたくしがぼーっとしていると、赤いつなぎの店員が、わたくしを呼んできて、「ここ!確認してほしいんですが!」、なんだか、どこかの部品が錆びていて、このままでは危険だ、とかなんとか。赤いつなぎの店員の方、舞台役者さながら、身振り手振りで教えてくれるのですが、機械の知識がないわたくし、とにかく何か錆びている、それしか分からない。しかし、赤いつなぎの店員の方、あまりに熱心に、ここが!こうで!と教えてくれるので、「ここが!錆びていて!」「ほう!」「ほら!ここがこうなんで!」「なるほど!」「ここが折れちゃうんですよぉ!」「本当ですねぇ!」思わず聞く方にも力が入るもの、わたくしと赤いつなぎの店員、深夜のテレビショッピングさながら、ここが!ほう!と繰り返し、なんだかふたりで、ひとつの舞台をやり遂げたような、気持ちになっていたのですが、「じゃあこれで、修理進めていいですね!」それはすみません。丁重にお断りをし、ひとり舞台を降りるわたくし、憮然とする赤いつなぎの店員の方。後日、愛車点検が控えているので…。

この世はすべて一つの舞台、ふたりで作り上げた舞台を残し、そんな言葉を思い出しながら帰路に着く。いや思っているのはわたくしだけだと思いますが。赤いつなぎの店員の方、なんだこいつと思われていたらすみませんね。

度の合わない眼鏡と霞目時間旅行

朝、目が覚めていの一番に不安になること、「眼鏡はどこだろう」。常日頃から物の置き場なんてものを決めている方々にとっては、そんなことはありえない、どうしてあるべきものをある場所に置かないのかしら、ということなのでしょうが、不肖わたくし、物どころか、この人の世に身の置き場すら見つけられずに幾十年、何とかかんとか生きてきたところでございます。

夜眠る前に、ふと、どこかに置いたのであれば、枕元、もしくはこの万年床の近く、どこかにあるはず、そう思い枕やら布団やら、とかくひっくり返してはみるものの、不思議、神隠し、どこにも見当たらない。ならば、夜中、トイレに起きた時の道すがら、どこかに置いてきてしまったのか、そう思うものの、眼鏡のない視界では見知った四畳半の中といえど、霧がかったように全てが薄らぼんやりと見えて、ああ、こんなことなら眼鏡を探すための眼鏡を持っておくべきでした。眼鏡のための眼鏡、ふと思い出す、学生時代にかけていた眼鏡、この前の大掃除に見つけたじゃないか。

座り込むわたくし、すっくと立ち上がり、床に放りっぱなしのあれやそれやを何とか避けながら、雑多入れ(本来は収納棚というものなのですが、普段は使わないが、何となく捨てるのも惜しいものを、無秩序に詰め込んだだけになりがちなので、収納、と呼ぶのも申し訳なくこう呼んでおります)から古い眼鏡を引っ張り出し、こんなフレームだったかしら、意気揚々と装着。したものの、途端に視界はきゅっと歪み、目の奥を摘まれているような、あの、何とも言えない不快さ、に襲われて、思っていたよりわたくしの目は悪くなっていたようで。この眼鏡を通して見ていた、制服と制汗剤が詰め込まれた通学バス、初めての音楽プレイヤーを握り締めながら歩いた通学路、落書きの彫られた窓サッシ、放課後に響くチャイム、学生時代なんてついこの前のように感じていたのに、あの頃見ていた世界は、最早、遠くなってしまったものですね。郷愁を閉じ込めるように、古い眼鏡、雑多入れの奥に再び押し込み、きっと、その存在を忘れてしまうまで再び会うことはないでしょう。

今の眼鏡はシンクの隅に置かれていました。何故なんでしょうね。

山のこと

なぜ、山に登るのか、といいますと、そこに山があるから、云々、などと言えるほど、わたくし、高尚なものではございませんので、登りは辛い、辛い、下りも辛い、辛い、なぜ、わたくしはこんなことを、そんなことを思いながら、えっちらおっちら、山にへばりつくようにして、何とかこなしているわけでございます。それでもなぜ、と申しますと、山は、わたくしにとって、最も身近な冥界であるからでありまして、思い上がった人間を、お前も自然の一部である、と、思い知らせる、鬱蒼とした森の木々、そうして、山頂付近、そんな木々すら生きることを許されない、圧倒的な景色の中を、行きて帰る。いわば、黄泉比良坂、産道巡り、と思っております。

ゆうちゃんはいつもそう言った

煙草を吸うことを、ゆうちゃんは気の長い自殺だと言った。それは恐らく誰かの言葉の受け売りで、しかも、いつもどうしようもなく突拍子もない時に言い出すものだから、ゆうちゃんがどんな思いでその言葉を引用していたのか、わたしは知らない。

「カラカラ、カラッポ人間やねん。」

ゆうちゃんは関西人という訳ではない。けれど、関西の言葉、それも、例えば、色あせた紅白幕で飾り付けられた公民館のステージ、誰も知らないような芸人、少なくとも本人たちはそうであると信じている、信じたがっている、芸人、たちが、目の前の、半径2メートルの中にしか世界は存在しない、そんな顔をした、人々、群衆の、透明な眼球の前で、叫ぶ、やけくそのように捲し立てられる言葉、そういうものを、ゆうちゃんは好んでいた。

「ああいうの、どうにもさびしくて、ええよなあ。」

ゆうちゃんの言う、さびしいという意味も、何が"ええ"だったのかも、ゆうちゃんの奇妙なイントネーションも、わたしにはてんで分からなかった。けれど、ゆうちゃん自身も、大して分かっていなかったんじゃないかと思う。カラカラ、カラッポ、空っぽ人間。

いつか必ずゆうちゃんは、煙草を吸うのと同じ気軽さで、わたしの前からいなくなる。それはちょっと、さびしいだな、と時々思う。

死んでも屍

死んでしまえたら、そういう思いを抱えて日々を生きております。思うに、生きることと生きていることは、現象としては同じではありますが、本質的なところはまるで違う、つまりは、一所懸命、いきいきと、もしくは泥にまみれても、意志を以て、生きる、そういう、魂、とも呼ぶべきもの、そういうものをお持ちの方は、きっと、しっかりと生きる、をしているのでしょうが、こちらわたくしといえば、只、産まれたから生きている、魂というには、些か空気の抜けすぎた風船、そういう塩梅で、あちらにふらり、こちらにふらり、そうして生き永らえているものですから、生きている、そういう只の現象として語る他ない。

いっそ、死んでしまえたら!後ろ暗いロマンチシズム、あるいは自己陶酔でもって、わたくしでも、死んでしまえたら、わたくしひとりの犠牲でもって、世界は救われ、数多の英霊のように、清廉な存在に、そうでなくても、わたくしのなきがらが、誰かの涙の一滴、そんなものになれるかしら、そんな空虚な妄想をしてみるものですが、わたくしの朽ちた身体は、死んでもなお、つまらない屍にしかならない、そういうことも分かってはいる、つもりですので、生きている、そういうただの現象に身を浸し、今日も今日とて身の回りの、ほんのささいな、狭い世界を蝕む害虫、小さな羽虫として生き永らえている次第でございます。

美少女の叱咤激励、生きるのが不得意なわたくし

新生活が始まりましたので、今度こそはちゃんと生きるぞ(わたくしは生きるのが不得意でございますので、こう思わねば日常生活すらままならないのです)、と意気込んでいる日々でございます。

ちゃんと生きるのにあたり、架空の「ちゃんとした女の子」、単に美少女と呼んでおります、を造り上げまして、彼女に叱咤激励、らしきものをしてもらっている次第なのですが、美少女、自分のように生きよと、ことあるごとにわたくしの生活に口を挟んできまして、わたくしが脱いだ服をそのままにしようものなら、「ちゃんとした女の子は?」「はい、きちんと洗濯機に、入れます」、「ちゃんとした女の子は?」「はい、食べたらすぐに、皿を洗います」、「ちゃんとした、女の子はぁ?」「はい、はい、」少しでも堕落、しようものなら、すぐさま彼女の、侮蔑、哀れみにも似た視線が、厳しく飛んでくるものでありますから、ここのところ、まずまず人間らしい生活をさせていただいております。

しかし、つい先日、旧宅より数多の段ボールが届きまして、美少女の指示により、人間らしく整っていた部屋、あっという間に段ボールの波に侵食され、美少女、ついに辟易としたのか、「ちゃんとした、女の子は……」いつもの口調にも覇気がない。段ボールに埋もれた部屋の隅で、恨めしげにしゃがみこむ彼女に、さすがのわたくしも一念発起。一念だけは発起しているのでございますが。

書を捨てられず、街に出られぬ日々

ここのところ、お酒をいただく機会がたくさんございましたので、連日連夜、アルコールで魂を軽くしておりましたところ、肉体の重さの総てが澱のように下へ下へと溜まってしまい、何につけても腰が重く、転居の準備は遅々として進んでいない有り様です。

転居にあたり、粛々と段ボールに家財一式を詰め込んでいるわけでございますが、ほんの数年の間に増え続けた本が、何とも重く、よもや自己増殖してるのではないかしら、積まれてゆく段ボールの数々に恐怖すら感じております。物語は生き物であるとは言うものですが、勝手に増殖するのはご勘弁願いたい。「持ち主すら子孫を残す予定もないのに、君達、もりもりと増えやがって。せめて何か一言、あってもいいのではないか」そう問いかけてみましても、返事はついにございませんので、仕方なく、わたくしの方から頁を開き、物語の声に耳を傾けることになるのですが、もっと聞いてくれ、もっと聞いてくれ、と言わんばかりに、オモチロイ展開を投げつけてくる物語の声を、途中で遮ることもできるはずもなく、もう一冊、と読み進めていく内に、やはり転居の準備は進まないものでございます。